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郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の「新御三家」がお茶の間の話題をさらっていた1970年代前半、シンガーソングライターの時代を予見し、「フォーク」という新たな音楽表現を武器に時代を席巻していったエレックレコード。吉田拓郎、泉谷しげるなど、アンダーグラウンドシーンから登場した、今やビッグネームのアーティストたちの多くが、何らかの形でエレックと関わりを持ち、そこから飛躍していきました。 後編は、10代で鮮烈なデビューを果たした山崎ハコ、高校生で、既にプロのスタジオミュージシャンとして活躍していたChar、映画「赤ちょうちん」で人気の絶頂期にあった秋吉久美子らが登場します。 |
![]() 『飛・び・ま・す』(1975年発売)
![]() 『綱渡り』(1976年発売) |
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当時「新譜ジャーナル」の副編集長だった尾崎さんに、「面白い子がいるから」って勧められて、カセットテープを聞いてみたら、すごくよかった。ハコを担当するようになったのは、それがきっかけです。何しろ衝撃的でしたよ、ハコの音楽は。 雰囲気も、神秘的というか、彼女が入ってきた瞬間、会社の雰囲気が変わるんですよ。ところが実際は、ハコってメチャメチャおしゃべり(笑)。でも事務所の社長のイメージ戦略で、僕らの前ではしゃべれない。しゃべると神秘的なイメージが崩れるからって。 ハコについては、懐かしい思い出があります。僕らが地方のプロモーションから疲れて会社に帰ってくると彼女、「克己さん、何か歌ってあげようか」って歌ってくれるんですよ。あの時歌ってくれたのは、「橋向こうの家」だったかな。今思えば、贅沢な話ですよね。 ハコは、URC(註:高石友也が発足、高田渡、はっぴいえんどらが参加した音楽事務所。URCは「アングラ・レコード・クラブ」の略)の「五つの赤い風船」の前座として全国を回ったことがあったんですが、その辺りから人気に火が付いた。当時16歳くらいだったと思います。「たかが15年と笑わないどくれ」(「影が見えない」)とか「あの家に帰ろうか あの家はもうないのに」(「望郷」)とかね、そんな曲を14、5歳で作るわけだから、彼女も天才ですよね。 |
![]() 『Char』(1977年発売) |
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1970年代、横須賀に米国の原子力空母エンタープライズが入港したことが、音楽の世界においては、ひとつの「黒船」でした。つまり、エンタープライズの乗組員たちが日本に持ち込んだ音楽の中に、レッド・ツェッペリンやクリーム、キンクス、キングクリムゾン、ピンクフロイドなんかがあった。ところが、僕たちの当時の能力では、それが理解できない。だから、聴いた曲はテープレコーダーに残して、回転数を下げて何回も何回も聴いて、それを全部譜面に起こして、それこそ寝る間も惜しんで練習したものです。当時高校生だったCharなんかの世代は、平行輸入盤を手に入れて聴いていたかも知れない。 彼とピアニストの佐藤準、ボーカルの金子マリ、ベースの鳴瀬喜博、ドラムの藤井章司がいたのが、「スモーキー・メディスン」というバンド。現在も再結成して精力的に活動しています。本当は、スモーキーはエレックから出したかったんだけど、会社が倒産して実現できなかった。当時のエレックの社長が、「スモーキーのマリを青江美奈にする!」なんて馬鹿なことを言い出して、当時なら本気で怒るところだけど、Charも「今だったらそれもアリだよなぁ」なんて冗談言って笑ってますよ(笑)。 Charのすごいところは、音楽に対して、世界の一流ミュージシャンと同じ意識を持っていること。佐藤準と一緒にロスでレコーディングしたけど、プレーもアレンジ力も絶対に負けない。凄いバンドだったんだ、スモーキー・メディスンは。Charは「まりちゃんズ」のバックもやったことがあって(笑)、本人は「俺の生涯で一番の恥だ」って言ってますけど。スモーキー・メディスンの連中とは、よく朝まで飲んだものです。当時、彼らは未成年でしたけどね(笑)。 |
![]() 『海援隊がゆく』(1972年発売)
![]() 『望郷篇』(1973年発売) |
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武田鉄矢さんがボーカルの海援隊は、泉谷さんが九州でステージをやったときの前座。それが、泉谷さんに「お前ら、面白いから出て来いよ」って言われて、泉谷さんはその話忘れてたみたいですけど(笑)、それで東京に出てきちゃった。『母に捧げるバラード』が入ったアルバム(セカンドアルバム『望郷篇』)では、僕がドラムを叩いています。 『母に捧げるバラード』は当初、アルバムの中の1曲に過ぎなかった。ところが、深夜放送あたりからリクエストがバンバンかかるようになり、「これはシングルを出した方がいい」ということになって、急遽シングル化、大ヒットした曲です。この曲を「夜のヒットスタジオ」で歌ったら、森進一が泣き出しちゃったという逸話もあるらしい(笑)。 海援隊は、デビュー当初から人を惹き付ける魅力があったと思います。エレックの中にも、彼らのよき理解者でありファン代表のようなスタッフがいて、会社の小さな給湯部屋で、彼らのために一生懸命カレーライスを作るなんてことがありました。僕もご相伴させてもらったけれど、海援隊と立ちながら食べたあのカレーライスの味は、忘れられませんね。 |
![]() 『秋吉久美子』(1975年発売) |
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1枚目のアルバム『KUMIKO AKIYOSHI』のときは、それほど関わっていなかったんですが、2枚目のアルバム『秋吉久美子』は僕が手掛けました。制作当時、「青い三角定規」の岩久茂君をアシスタントに付けて、僕が(秋吉久美子を)叱る代わりに、彼になだめる役をやらせたら、それでデキて結婚しちゃった(笑)(編集部註:その後、二人は離婚)。 秋吉久美子は、イメージ通りのアンニュイな子。でもわがままとかじゃなくて、すごくいい子ですよ。当時、22、23歳くらいだったかな。映画だと「赤ちょうちん」の頃。人気の絶頂期ですよね。僕は、女性で天才を2人挙げろと言われたら、間違いなく山崎ハコと秋吉久美子を挙げます。事務所でものすごい音で音楽かけて、普通の人には絶対に聞こえない声で悪口言っても、彼女にはちゃんと聞こえるんですから(笑)。 |
![]() 『この暗い時期にも』(1971年発売)
![]() 『風の架け橋』(1974年発売) |
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敬太郎君とは、『風の架け橋』いうアルバムを一緒に作りましたが、彼と過ごした時期が一番長かった。敬太郎君は、どちらかというといぶし銀の、一見目立たない存在なんだけど、彼にはR&Bの匂いがするんです。泉谷しげる、古井戸、ケメといった人気ミュージシャンたちからも一番信頼されていましたね。正直、この年になってみんなに会うと、どこか「自分はうまくいってんだ」って見せつけたがる人がいるじゃないですか? 敬太郎君はそのまんま。昔と全然変わらない。本当にいい男だなと思いますよ。 ミュージシャンは、自分の納得するステージが一生のうちに5回あれば幸せと言われるんだけど、僕のドラマーとしての音楽人生の中では3回ぐらい。そのうちの1回が、敬太郎君と演奏した六本木のジャズクラブ『ミンゴスムジコ』でのライブ。終わった時、無性に空っぽな気分になったのを、今でも覚えています。 |
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